崇める

信者は信じる者。その者が人であったり神であったり仏であったり、時には
会社や企業の時もある。そして尊敬する存在なのか?崇める存在なのか?
その判断は当事者本人のみが知ること。ただ「尊敬」と「崇める」は全く違う。
【尊敬するからやるべきこと】【崇めているからやるべきこと】は違う

「信者」「尊敬」「崇拝」の意味を理解しておきましょう

信者とは
「特定の宗教を信仰する人の事」が本来の意味です
個別の人とか物を指すものではない・・・

しかし

最近は「ジャニーズの○○の信者」だとか「Appleの信者」だとか
個別の人や物を信者にしている人も多い

もちろん
特定の宗教の信者は地球規模の数だけいます

今回は最近使われている
個別の者、特に人を信者としている人に特定して進めていきます

では次に

尊敬とは
敬(うやまう)こと。人格や行動、スキルなどが優れているから頭が下がる。
この人についていきたい・・・そのような気持ちになること。です

崇めるとは
崇拝ですね。信仰的な要素、つまり宗教的な神や仏などを信じて敬うことです

信者を「尊敬」するのと「崇める」のは違う

誰かを信者として「尊敬しています」と「崇めています」とでは
全く違う意識の持ち方であることに注意しなければならない

ただ同じ意識レベルだから良いこともあります

つまり

「尊敬」と「崇める」を同じだと思いこんでいる人です
本来なら全く違う意味だから自分自身の行動が違ってくるはずです
もう少し言うと「好き、大好き、ファン」だから「尊敬して崇めている」

まあ、特に誰にも被害を与えず本人が良いのなら問題ないレベルですがね

では次は「尊敬」と「崇める」から行う行動を考えましょう

「尊敬」するからやるべきこと

「尊敬する人」=人格も行動も、スキルも凄いと思っているのですから
自分もそうなりたい、少しでも人間として近づきたい、目標の人でもあります

そうなると

尊敬する人のことを真似るという行動が正しいことです

例えば
野球選手で尊敬する先輩がいたらその人のプレーを真似るし
技術もプレーも近づきたいと思うでしょう

最近は「分割尊敬」もあるようですが
その人の「野球に対するプレーは尊敬する」が
「私生活のノー天気ぶりはいかがなものかと思う・・・」とかです

冗談で使うときがほとんどですが最近の言葉の風潮でしょうかね

話を戻しますが

「尊敬する」は
我が子の功績や後輩の功績に「尊敬する」とも使いますが
どちらかというと
自分と同等以上の人を「尊敬」するのが自然な使い方です

その時

ただ「凄い人だ」「カッコイイ」と思っているだけでなく
自分も頑張ってこれから先「尊敬される人になろう」と思うべきですね

【尊敬する人への恩返し】なんて言いますが

尊敬する人を目標に頑張るというのが、やるべき行動です

「崇がめる」からやるべきこと

崇めるは
宗教的要素が強く特定の人物を崇める人は
その人を神様だと思うようになりがちです

人気歌手の○○を「崇めている、崇拝している」って人は
相当なファンだと思います

ライブはもちろんCD、DVDはもちろん関連グッズはすべて揃えている
崇めているのだから、毎日、神様のように拝み祈っている・・・

そういう人もいると思います

決して悪いことではないし「崇められている人」も
そういう人がいるから、力とか勇気とか元気をもらって頑張れるのでしょう

「崇める」が
実在する人にしろ物にしろ「崇める」から
よりどころ、心の支え、強い意思を持ち続けるなどの
精神的コントロールができているはずです

疲れて帰ってきたときに
崇める人がいるから、また頑張ろうと思ったり
落ち込んだ時なども崇める人がいるから気持ちの整理ができる

それは良いことだと思います

「尊敬」と「崇める」の共通点

仏像

「尊敬」も「崇める」も自分自身がすることです

テレビやネットなどで○○さんが超人気「尊敬する人NO1」
このような記事を見て
少しだけその人のことを調べて少しだけ知って
僕も「尊敬します」ってことにはならないはずです
「崇める人」も全く同じことです

しかし
形だけで流行に乗り遅れたくない的な思いで
「似非(エセ)尊敬、エセ崇拝」してる人もいるのは事実です

まあ、そういう人達は論外ですが

自分自身の意思で「尊敬」「崇がめる」が成り立ちます

共通点は【自分自身の意思】です

自分自身の意思だからこそ貫くべき

人生は色々ありますから
尊敬していた人に「裏切られた」ようなことはあります
崇めていた人に「裏切られた」ようなこともあります

その時の理由にもよりますが
「尊敬」していたのはその人の人格だったりスキル、プレーなどですね
仮に
その人が何らかの犯罪で捕まり罰せられた場合
「その人の人格を尊敬した自分が間違っていた」となりがちですが
尊敬できていた時は少なくとも過ちは犯してなく、素晴らしいと思った人格です
つまり
「尊敬した自分を否定」する必要はありません
尊敬していた時のその人の人格とかスキルを尊敬し続ければよいだけです
また
時間と共に尊敬する人は遠い人となり
新たに尊敬する人が出来るのも特に問題ないと思います

「尊敬する」ことが軽く感じますが
長い人生を見たときには時代も変わるしスタイルも変わります

変わっては駄目なものは自分自身の尊敬する気持ちです

「崇める」のが人物だった場合も同じことです
実存する人物なら尚更ですが「人は変化します」
「尊敬」の時と同じですが
その人を「崇めた時」の気持ちは持ち続けるべきです

ただ
「崇める、崇拝する」人にずっと頼り続けていると危険です
もうすでにこの世にはいない人、神、物ならば問題ないです
つまり本来の「崇める姿」です

これが
実存する人物だったとして「崇める」あまり
全てその人ありきの考え方、行動、精神までもが左右されているとき
【完全に思考停止状態】になっている可能性が高いです

もし「崇めている人が亡くなったら・・・」
「ショックで生きるすべをなくしてしまった・・・」とかになり兼ねません

実存する人を崇めているなら
「時代は変化するし人間だから寿命もある」ということを理解して
今を楽しく、そしてよりどころにしても良いが
それはあくまでも「自分自身を強くするため」だということですね

「尊敬」そして「崇める」はとても良いことです

良いことをしているのだから「自分自身もよくなる」ことが重要です

最後にまとめ

人生に目標を持ち「尊敬する人」が見つかればラッキーだと思いましょう
目指すところが見えたのですからね
それが通過点であると尚更良いと思います

本来は神を崇拝するのでしょうが、現存の人を「崇める」なら
徹底的に全てを知り尽くして「崇める」べきです
そして
絶対に「思考停止状態」にならないように注意しましょう