日々の生活で多くの情報が飛び交っている中で人は「真実が知りたい」
と思うことが多い気がします。事実を見たり聞いたりして
その中の「もしかしたら隠された真実があるのでは?」と疑う?からです
また真理と言う言葉は論理的にかなっていることなのか?
事実、真実、真理は深くて難しい言葉ですが
普段の日常でも少しだけ分けて考えると気持ちの整理がしやすいですね
人の死をきっかけに事実、真実、真理について考えてみたいと思います
その中には隠された真実があるのではないかと疑うこともあります。
また、物事が論理的にかなっているかどうかも気になります。
事実、真実、真理は深くて難しい言葉ですが
普段の日常でも少しだけ分けて考えると気持ちの整理がしやすいですね。
例えば
人が亡くなったときには、通夜から葬儀までの間
遺体は棺にドライアイスで保管されます。
これは今の日本では普通に行うことです。
その時に、お坊さんや多くの人が言うことは
「全て故人は聞こえている」というのが言い伝えですね。
それはそれで故人を目の前にして
「悪口や軽蔑するようなことを言っては駄目」だということでしょう。
しかし、死んだ人が聞こえていることはありえません。
ただ多くの人は故人をしのんでお別れの言葉をかけて
感謝の念やありがとうの言葉をかけます。
この場合、人が亡くなったことは事実です。
故人に感謝の言葉などをかけるのも事実です。
では、「全て故人は聞こえている」という言い伝えは何でしょうか?
それは個人や集団のフィルターを通した真実です。
それを信じて皆が「あ~そうなんだなあ」と納得しているのも真実です。
また、そういった言い伝えを子や孫に教えていくのも真実です。
事実と真実は同じ時間軸で見ていることです
見方や解釈が違うこともあります。
交通事故の現場に遭遇して目撃者になったとしたら
警察官には見た事実をそのまま話してくださいと言われます。
しかし、あやふやな部分を私見を交えて話すことになります。
その私見が入った時点で事実から真実に変わります。
真実は物事をねじ曲げるという意味ではないのですが
先ほど話した個人のフィルターの違いで変わります。
事実もすでにフィルターがかかっている状態で見ているので
人それぞれ違いが出るのは当たり前なのです。
世の中の出来事は事実と真実で判断されますね。
最終的に判断するのが裁判官だったりすることもあります。
裁判官は人間です。
自分のフィルターでなく多くの事実と真実から判断するのですが
やはり裁判官のフィルターが外れることはないでしょう。
「事実と真実は個々ですべて違うのが当然である」ということです。
真理は事実と真実とは関係ないのでしょうか?
実は事実と真実までは多くの人が追及しようとしますが
最も重要なのはその先の真理へたどり着かなければなりません。
仏教では真理こそが誠であり正しいと言われているようです。
仏教は置いといて
あんまり普通の人達が真理までたどり着いているかと言うと
「たどり着いていません」し「たどり着けない」と思います。
人生を重ねれば重なるほどフィルターが厚くなってる可能性があります。
真理はフィルターを通さずに見たままの姿です。
つまり
もし自分が見たり聞いたりしていることを
フィルターを通さずに受け止めたらどうなるか?
この作業をしている人はあんまりいません。
この作業をする必要もないのかもしれません。
しかし、物事とフィルターを通さずに見る訓練だとか
意識を持つと時に気持ちが清々しくなることがあります。
それが、無の状態と言えるものかもしれません。
真理は事実と真実を整理することで見えるかもしれません
今日見たこと、聞いたこと、食べて味わいを感じたことなど
毎日が事実と真実の連続です。
そのなかで「意見の食い違いや、美味しい不味い」などが
たまりにたまっていくとそれがストレスになる原因かもしれません。
そこでどうするか?
毎日でなくても事実と真実をきちんと整理しておくことです。
人が亡くなったら
通夜に始まり葬式だとか初七日だとか49日法要だとか納骨だとか…
この先には多くのやらなければならないことも事実です。
そこで、例えば49日法要をどのような形式でいつどこでやるのか?
残された遺族で話をしなければなりません。
冒頭で話をしましたが
日本人の慣習でなんとなくではあるが仏教にのっとって
その作法通り行うのが不思議な部分でもありますがそれが真実です。
そして、事実と真実を話し合いなどで決めて話がまとまれば
それを自分自信の真理に落とし込まなければなりません。
その部分が道理的な納得の仕方です。
道理を無視したりあやふやにするとそれがまたストレスになります。
つまり、真理は事実と真実を納得できるものにして本来の道理にすることです。これで、かなりのストレスは解消できるはずです。
また争いやトラブルもなくなるはずです。
「真理は事実と真実をきちんと整理すれば見えてくるもの」ということです。
仏教における真理に触れておきます
苦しみとその原因、消滅、解決法についての真理
すべてのものは変化し続けるという真理
すべてのものは他と関係なく独立して存在するものではないという真理
〇 中道
極端な考え方や行動を避けて、適度なバランスを保つことが正しいという真
すべてのものは自己性や固定性を持たずに
因果関係によって生じ消えるという真理
実践することで、心が安定し、幸せに生きることができると教えます。
仏教の真理は
仏陀(ブッダ)と呼ばれる真理を悟った人々によって説かれたものですが
仏教では誰でも真理を悟る可能性があると考えます。
そのためには、自分の心や世界に対する見方や考え方を変える必要があります。仏教では、その方法を四諦八正道や六波羅蜜などとして具体的に示しています。
まとめ
人の死を見て「事実、真実、真理」が分からなくなった
今回の記事はかなりの自分の私見ではあるが
最終的に道理的な部分が生きていく上でとても大事だと気づかされた
それに気づくには事実と真実を整理することで
心のモヤモヤなようなものが少しは晴れたのかもしれない