「執着を捨てる」ってどういう意味?どうすれば捨てられる?

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仏教では、執着を捨てることが重要だとされています。
これは、執着が苦しみの原因であると考えられているからです。
執着とは、ある物事に深く思いをかけてとらわれること
つまり、強くこだわることを指します。
これにより、私たちは苦しみます。

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「執着を捨てる」」とは物事にこだわるな!ってことか?

例えば
人間は何かにとらわれたり、こだわったりすると
やめることができなくなります。
長く付き合っていた人に執着すると、別れられなくなります。
その結果、この人とは結婚しないほうがいいと思っても結婚してしまい
不幸な結婚生活を送る人もいます。

しかし
「執着を捨てよう」と強く思うこと自体が新たな執着となり得るため
その物事に心がとらわれている状態そのものであるとも言えます。
したがって、「執着を捨てる」という行為は
自己の内面に対する深い理解と受け入れが必要とされます。

「執着を捨てる」は自己の内面的な変化を促すアプローチです。
また、「執着を捨てる」という考え方は
心の重荷から解放され、穏やかな心を持つことができるとされています。

「放てば見てり」「方下着」をわかれば「執着を捨てる」ことが出来る

「放てば手に見てり」は
執着を手放すことで、真理が見えるようになるという教えです。
真理とは、仏教では「悟り」と解釈されます。
悟りを得るには
執着を捨て、あるがままの自分を受け入れることが必要不可欠です。
「方下着」は
あるがままに受け入れることの大切さを説いた言葉です。
執着を捨てるためには、あるがままの自分を受け入れることが重要です。
あるがままの自分を受け入れることで
執着から解放され、自由になれるのです。

このように、「放てば手に見てり」「方下着」はいずれも、執着を捨て
あるがままの自分を受け入れることの大切さを説いた言葉と言えます。

ただ、厳密に解釈すれば

「放てば手に見てり」(ほうてばてにみてり)
および「方下着」(ほうげしゃく)は
仏教の教義に関連する言葉ではありますが
直接的に「執着を捨てる」という意味ではありません。

1. 「放てば手に見てり」(ほうてばてにみてり)は
仏教における「無我の境地」や「無我の体験」を表現する言葉で
一般に「手を放せば手が見えなくなる」のように
自己や執着を超越した境地を指します。
この言葉は、心の執着を捨て、自己の枠組みを超越し
真実の自己を体験することを意味します。
2. 「方下着」(ほうげしゃく)は
仏教における戒律(律令)や戒めに関連する用語です。
仏教の僧侶は、特定の規則や戒めに従って生活し
物質的な執着を捨て、精神的な成長を追求します。
この言葉は、仏教の修行者が物質的な欲望や執着から離れ
煩悩を減少させるために服や食事などの
必需品について規制を受けることを示すものです。

したがって、「放てば手に見てり」と「方下着」は
仏教の教義や修行において執着を捨てることが重要であるとされていますが
これらの言葉自体は「執着を捨てる」という具体的な表現ではありません。
執着を捨てることは仏教の中心的なテーマであり
これらの言葉はその一部として理解されますが
直接的な意味は異なります。

まとめ

人にもよりますが執着心は多かれ少なかれあるものです。
過去の何かに囚われているかもしれない。
今現在の何かにこだわっているかもしれない。
それらが、身の回りの人に弊害を及ぼしている場合は良くないから
「囚われ」「こだわり」つまり執着していることを見直す必要がある
簡単に言ってしまえば「執着を捨てる」って
自分だけの問題から周りの人へ悪影響を与える場合があるから
しっかりと意識して実践することが大事だと思います。

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