ぜんご

「散る桜、残る桜も散る桜」有名な禅語ですね。
意味はなんとなく分かる気もします。少し物悲しい禅語に聞こえますが
人それぞれがその時の思いや気持ちで捉え方が変わるものです

「散る桜、残る桜も散る桜」が伝えたいこととは?

禅語は悟りだとか教えを短い語句に凝縮された言葉でもあります
その中の良寛の辞世の句「散る桜、残る桜も散る桜」は
どのような時に使われるのか?何か深い意味として捉えるべきなのか?
難しく考えすぎず、でも根底にある「命とは?」【主観です】

「散る桜、残る桜も散る桜」と言った良寛

良寛は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶で書家でもあり歌人でもあった人です

辞世の句ですから、この世の終わりを悟ったときに読む句です
「散る桜、残る桜も散る桜」以外に「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」が
良寛の辞世の句だという説もありますが
今回は「散る桜、残る桜も散る桜」にフォーカスします

「散る桜 残る桜も 散る桜」は後世に残した問いである?

「散る桜 残る桜も 散る桜」の直訳的意味は

散っていく桜もあれば
頑張って美しく枝に咲き続けている桜もある
しかし
最終的にはいつかは散っていく桜(花)。

人の命に当てはめると儚いようでもあるけど
生まれた時から死ぬことは決まっていて逃れられない事
その命の終わりの描写です

そして
また翌年には同じように美しく桜が咲き放つ
その繰り返しの中で人それぞれのドラマが繰り返される

という感じでしょうか。

命は有限である

命の尊さを問う禅語だということがわかります

生まれた瞬間に死ぬカウントダウンは始まりますが
誰しもが生まれた瞬間に「死」を考える人はいません

人生を重ねていき50歳を過ぎたことから自分の死について考えるのが普通です
もちろん
病気や事故で死について考える時が早くなる人も大勢います

もう少し言えば
重たいテーマですが「死」については一生考えることです

世界中で今この瞬間に誰かが生まれて誰かが死んでいるわけです
ニュースを見ても毎日、事故や病気で死亡のニュースは痛ましいことです
しかし
他人事でなく自分もいつかは「死ぬ」ということです

どうせ「死ぬ」でなく大切な一度きりの人生

「一度きりの人生だから大切に一所懸命(一生懸命)生きなければならない」
と言う言葉は誰もが言うし当たり前のことだし
励ますとか応援とかのメッセージになるかも知れないが
「死」を意識していない人にはピンとこない言葉です

つまり
「有限である命だから考えるべきことは何か?」
「今を大事にまじめに時間を有意義にがんばって生きる」でも良いのですが
それ以前に
死ぬということはどういう事なのか?を【意識すること】

ここでのポイントは
死」と言う重いテーマを意識して考え続けることです

生命が誕生したときから今尚、誰もが考え続けていること

私は特別な宗教を信仰はしていません
母体が仏教組織の高校だったので授業で仏教の時間はありましたが
当時は仏教については意識していませんでした

大人になってからも宗教、新興宗教などを情報として見たり聞いたり
あるいは実際に触れてみたことはありましたが
少しの知識として禅の言葉とか問答とか教えとかが
日常の生活にも活かされているのだということが
だんだんと分かってきているところです

まあ、難しく考えずに時々じっくりと考えるのが好きなだけです
仏教や哲学のプロフェッショナルでないので、ゆるく楽しくですね

少し話が脱線しましたが話を戻します

お釈迦様かどうかは分からないのですが、ブッダになられた人が
「弟子がブッダに供物をして、それが毒を有する食べ物だった」
「そのことでブッダが亡くなった」
という話を聞いたことがあるかもしれませんね
続きがあり
ブッダは弟子に最後の供物を与えてくれたことに感謝をして
「たまたまそれが毒が入っていて死ぬだけだ」
「生まれた命はいずれ滅するものだ」
と言うようなことを言ったとか言わなかったとかと言う話です

現代だったら殺人罪に問われるかもしれませんが
そういうことでなく
先ほども書きましたが「命は有限である」
「死ぬことを恐れるのでなく、死から免れることはできない」
そのことをキット言いたかったのだと思います

では「死ぬことは不幸でないのか?」と言うことも考えますが
「若くして不幸にも病気で亡くなった」とかいいます
じゃあ「100歳まで生きて亡くなれば不幸ではない」

ではないですね

年齢とか死因とかは様々なのです

不幸か?幸せか?と言うこともわかりません
ただ
残された人の感情は「残念無念」だと思います

もしくは「100歳まで色々あったけど往生できたからキット幸せだろう」です

仮に病気になり余命を宣告されたとしたら?
残念ながら私は体験していないので聞いたことしか書けませんが
「残された命を大事に、そして普通に今までと同じように生活する」
「ただ、病気と最後まで必死に闘う」と言う人が多いです

ここでのポイント
死を目の前にした人も死んでいった人も「死を意識して考えた」
すなわち【命の尊さを感じて生きていることが幸福だと感じる】です

死のテーマを考えても結論を言えば答えはない

「散る桜、残る桜も散る桜」の禅語は死を問う禅語だと書きました

死についてのテーマはなぜ重いのかと言うと
絶対に逃れられないテーマだからです
それと
死についての答えも正解もありません

正解とか答えがないものなのに
なぜ理屈や理論づけして「こうなんだ!」としたいのか?と言う部分です

例えば以前の記事でも書きましたが
「転生輪廻」を理解すれば死がどういうものかわかる?とかです

多くの宗教学者や哲学者が説いてはいるのですが
言い方悪いですが「気休めです」
それは
「恐れることから安心感を得たい」
「精神的に落ち着きたい、楽になりたい」という人間の気持ちですね

重要なのは
楽になるのでなく強くなることです

様々な事柄をその時々で考えて悩んで解決したりできなかったりする事
まさに生きていることが死を考えるという事です

ここでのポイント
「死を考えるから生きることとはどういうことか?」
【自ずと行動そのものが変わる】

最後にまとめ

禅語に限らずですが
現代社会だからこそ大切にしなければならないことが忘れがちです

その中の「死を考える」ことは
「生きているから出来ることであったり、生きているからやること」
最も重要なことだと感じました

ただ
焦って何かをしようとか、慌てることではありません
じっくりと人それぞれが自分の目の前のことに
一所懸命(一生懸命)取り組むことだと思います