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人生は山あり谷ありと言うけれど,いつも谷を歩んでいると感じている人も多い
しかし,コツコツ真面目に学びながら歩みを止めなければ,
その姿を見ている人がいる,そして必ずステージをワンランク上げるチャンスが巡ってくる。そのタイミングが啐啄同時と言える。

啐啄同時は学ぶ人も教える人もタイミングを逃さないために必要である

私は元中国料理の職人でしたから昔の話で恐縮ですが
見習いのころ,先輩に言われることは「見て覚えろ,技を盗め」です
これは昔も今も変わらず言われることです
手取り足取り教える時代になったのかもしれませんが
基本は自らが覚える気になって
師匠の技を何とか盗む気持ちがなければ上達はしませんね

そこで
師匠も弟子のことを,ちゃんと見ていなければ
適確に教えることはできません
何処が良くてどこが悪いのか?
どんなところが苦手なのか?
包丁使いは上手いが盛り付けにセンスがないとか
味つけが今一薄いとかですね

そういった細かなところを見て
そろそろ秘伝の技を教えるか!と思うときは
弟子が一生懸命学ぼうとして色々試行錯誤しているが
あと一つ足りない部分が見えた時ですね

その時に
師匠が直接教えるのか,普段見せない秘伝のノートを
さりげなく,見ることができるようにするとかですね

この瞬間が弟子が一歩成長するときなんです

つまり
お互いの気持ちが一致しないと
この成長,チャンスはいつまでたっても無いですね

そこで
禅語の「啐啄同時」です

啐は、口編に卒(サイ)と書いて
おどろく
呼ぶ
子供をあやす声
なめる
などの意味があります

啄は、口編に豕(タク)と書いて
ついばむ
たたく、です。

啐啄は禪宗において、
今まさに、悟りを得ようとしている弟子に、
師匠がすかさず教示を
与えて悟りの境地に導くこと

分かりやすく言われているのは

「啐(そつ)」は、
卵の中の雛が内側から殻をつつく音。
「啄(たく)」は、
そんな卵の変化に気づいた親鳥が、外側から殻をつつく音。

啐啄で
殻を破る者と、それを導く者。
そんな両者の「啐」と「啄」が、
ピタリと同時に行われ「啐啄同時」という禅語が出来ました

生まれてこようとする雛と親の殻をつつくタイミングが
少しでもずれれば生まれ出ることが困難かもしれません

これは動物の無意識の習性なのかもしれませんが
同時に同じ作業が行われるところを強調していますね
少々ずれても生まれてくるのかもしれませんが
理想は、
雛と親鳥の殻をつつくタイミングがちょうど同じであること。
それが「同時」であることの意味です

そして
師弟関係や指導者と教わる側
教師と生徒,親と子で
この啐啄同時が使われることが多いのは

お互いの信頼関係が築かれていく中で
お互いが毎日考え方や,行動,能力を把握できていないと
一歩先へ進むチャンスを見逃してしまうということです

つまり
早くもなく、遅くもない。その時のチャンスをを逃さず
正しく導き
そのタイミングを決して間違わない、
絶妙の機を逃さないという意味に繋がります

もう少し言うと
指導者にとっての資質が問われる言葉です

それは
子供や教わっている側は一生懸命やっていて
必死だからあと一歩の部分が見えない時が多いから
指導者がそれを見極めて
指導して成長を促すことが重要ですね

親と子ではもっと重要かもしれませんね

最後にまとめ

啐啄同時という言葉は覚えておくと損はしません

しっかりと意味を理解していれば
その意味が示す行動をするからです

言葉だけを知って意味は分かっていても
行動しなければ役には立ちませんね