ぜんご

行雲流水は「何の執着もなく何事にも捉われない生き方」の指針です
眼横鼻直は「あるがままの事実を素直に捉えること」を言っています
普段はあまり使わないけれどなんとなく聞いたこととがあるかもしれませんね
少しだけ普段の会話の中で意識すると【強い精神へと進化します】

行雲流水や眼横鼻直は「まずは自分自身のフィルター」に注目

行雲流水は美しい響きでなんとなく理解して使っていると思います
どちらかと言うと楽観的な意味に捉われがちですが奥深い言葉です
眼横鼻直はあんまり使わないけど「これはこうなんだ!」的な少し硬い感じです
共に当たり前のことなのですが現代だからこそ大切にするべき言葉です

行雲流水と眼横鼻直を少しでも理解しておきましょう

行雲流水については以前にも書いていますので
下記記事を参照してください

少しおさらいしておくと
雲は漂い水は一か所に留まることはない
行雲流水は何の執着も無く
何の捉われもない生き方を示した言葉で
「自由奔放な生き方のようではあるが実はとても深い言葉」

一切衆生も含め地位も名誉も全て持たずに
全ての事にこだわらずに生きていくという
「仏法に従って悟りを得たものだけが出来る生き方」とも言えます

そして
眼横鼻直についても書いていますので
下記記事を参照してください

以前より詳細を書きますと
道元禅師(曹洞宗の開祖)が中国に渡り禅を持ち帰ってきて
禅の道場「興聖寺(京都府宇治市にある曹洞宗の寺院)」を建立し
修行者に対する説法の中で使われた「禅語」だという説があります
よく言わている「永平広録」にあるとも言われていますが
その事実はないという説もありますし眼横鼻直は
「中国禅語録」で多く見られる表現でもあります

眼横鼻直の意味はそのままなのですが
「眼は横向きについていて、鼻は縦向きについている」
すなわち
「見たままをそのまま素直な気持ちで表現し、素直な気持ちが重要である」
と言うような感じの意味で良いと思います

ただ
「見たものを素直にあるがままの事実を素直な心で受け入れる」
おそらくこの部分が修行しないとなかなかできない部分だと思います

ここでのポイントは
行雲流水の「何の捉われもなくこだわらずに生きていく」ことと
眼横鼻直の「あるがままの事実を素直な心で受け入れる」ことが
【現代人が生きていく上で大事にしていかねばならない事】

行雲流水、眼横鼻直は深く通じる部分がある

行雲流水の「人生にこだわりを持たずに生きる」と言うことは

自然の世界は自然の法則に従って無意識に動いている
現代、これからの未来の課題でもある地球温暖化にしても
自然は素直に無意識に反応して動いているだけのことである

人間の知恵と知識は進化していくのが当然でありこれからも進化し続ける
その中で
自然と人間界の発展の共存がとても重要なこと
つまり
自然が無意識に動くことで人間に「今やらなくてはならないことを教えている」
自然界の忠告とも感じることに人間は素直に進化しながら進んでいくべきだ
つまり
「個人のフィルターによって自然界の法則を変化させてはならない」
「偏見とも言える理屈だけのこだわりは持つべきでない」

その証拠に昔も今も太陽は東から昇り西へと沈んでいく
これを変えることはできないのだから「妙なことにこだわらずに生きていく」
と言う感じで使えるのではないでしょうか

例えば音楽家が作曲依頼を受けた時
クライアントの意図、詩の意味などを自分なりに理解して
その中で「コード進行だとかリズム」を作り上げていく
つまり
「自分の知識とスキルを最大限に活かして、こだわりを持って創作する」
こういった「こだわり」と行雲流水の「こだわらずに生きる」とは違う

もう少し言うと
自分のフィルターである知識やスキルのこだわりは一先ず置いといて
クライアントが望む作品を「自然の姿のまま見る」「俯瞰してみる」など
それから自分の「こだわりの部分で表現していく」ことだと思います

眼横鼻直に直結する

自然界の法則のような事と音楽制作を例にあげましたが
人間の生き方の部分で心の持ち方を自分に問う言葉でも在ります

全ての事は自分と言うフィルターを通して見ます

誰かの行動や発言が素晴らしいとしても
それを真似て発信するときは自分と言うフィルターが入ります

元の発信者は特定の人に発信したわけでないが
受け取る人は不特定多数です

その多数の人がそれぞれに違うフィルターを持っているから
第二、第三と電波していく間に違う意味になってしまう場合があります

つまり
元の発信を見る時点でフィルターを通して見ているとも言えます

この部分が重要で最も困難な部分です

全ての人が細胞も性格も違います
同じような考え方や意思はあってもフィルターは違うのです

そのフィルターを通さずに見て
フィルターを通さずに発信することは不可能とも言えます

それは生きているからですね

そこで「眼横鼻直」ですが
見たまま、ありのままを先ずは受け入れるのです
そして
十分に自分に問いかけてから同じように発信するのか?
もしくはフィルターを上手く利用して発信するのか?

その判断は大事ですね

ただ
実際に見たものや食べたものをありのまま受け入れるところまではできます

ここでのポイント
素直に見たままありのままを受け入れることが大事で
その後に自分のフィルターを通して発信するのだから
【フィルターがいかに重要なものであることに気づく】

最後にまとめ

仏教語に如実知見があります

「現実をありのままに見抜くこと」
と言う表現が一般的ですね

「現実をありのままに見る」だけと言う意味でなく
「見抜く」と言う部分がポイントですね

今も昔も偏見で正しいものも正しくなくなることがあります
事実もねじ曲げられることもあります

それらは非常に駄目なことなのですが

「それが現実だ!」的な部分があります

だからこそ
行雲流水、眼横鼻直を理解して
如実知見の自分自身でありたいですね

如実知見の言葉も深いですから
いつか機会があれがじっくり自問自答しようと思います