老人夫婦

誰家無明月清風(たがいえにかめいげつせいふうなからん)
これを読むのはかなり難しいですねw

ただ
誰家無明月清風の意味を知ればなるほどと思います

人生はだんだんと歳をとるのだけは避けられません
同じ年を取るのでも誰家無明月清風の意味を知っておくと
美しくまだまだ長生きできそうに感じます

優しくもあり心清らか、それが本当の強さです

人は歳をとると丸くなるなんて世間一般に言われています

中には
丸くならないお年寄りも多いが、それはその人の性格であり
頑固なうちは元気なのかも知れません

普通には丸くなっていくのが自然でもあります
それは人生の経験値と死生観の現れでもありますね

若いうちは強引で我が強いけれど
年齢を重ねていくうちに
世間の風や感じたくさんの物、たくさんの人を見みます
「我」がどれほどまでに自分を苦しめていたのかに気づく

そして
ゆっくりと生まれたままの姿、心に戻っていく

それが人生の流れであると思います

誰家無明月清風(たがいえにかめいげつせいふうなからん)

仏性であるための仏教の根幹の言葉です

ボロボロのあばら家にも
とてつもなく立派な家にも
月の光、心地よい風は平等にいきわたる

「明月清風」=仏の心

知識も才能も貧富も関係なく
人の心の奥には仏性を持っている
慈悲は皆に注がれ仏性は皆に宿っている
それに気づていないだけだ

禅語はそのように言っています

信仰は自由であり
人は自分が良いと思うものが良いのであって
何かを崇拝するのも教えを学ぶのもその人次第です

私のように
神も仏も自分の潜在意識の中に存在すると思う人も

全ては自由は平等であるということを言っておきます

それも踏まえてこんな経験はないだろうか

人生おそらく1度や2度は神社やお寺に行ったことはあるでしょう

その時
何か心に感じるものはなかったでしょうか?

空気が澄んでいると感じたり
何か分からないけどエネルギーを感じたり
静かな中にも目に見えない強さを感じた

それは
人の心の奥にある素直な部分の現れですね
その素直さが仏性であると思います

人はどこかで間違うこともあるのは普通です

ただ
人を傷つけたり恨んだり
そして第一線を越えてしまう人は残念です

素直な心を持っていながら
自分の心から離れることだけを選んでしまったのかも知れません

つまり
自分自身を失い逃げてしまった時に
とても残念なことは起こる事があります
特別な例ではありますがね

小さな間違いや恨みは誰しもが経験しています
反省してやり直してき生きるものです

今まで頑固で他人の意見も聞かずに維持を張ってきた人も
だんだんと丸くなるのは
そのような生き方より
笑顔で周りに順応して優しく生きた方が良い事に気づくからです

ただそこには経験と言う強いものが存在します

それが年齢を重ねていく本来の姿でもあると思います

早く気づけば早く優しく強い心に近づけます

意識して心の奥を覗く習慣をつければ
潜在意識はどんどん清くなっていく

最後にまとめ

カッコイイ年寄りと言われたいですね

人それぞれ生き様は違いますが
意地を張るとか頑固であると言うのは
強い信念を持って生きているのとは違いますね

強い信念が強ければ強いほど人には優しくなれる気もします