事実真実真理

日々の生活で多くの情報が飛び交っている中で人は「真実が知りたい」
と思うことが多い気がします。事実を見たり聞いたりして
その中の「もしかしたら隠された真実があるのでは?」と疑う?からです
また真理と言う言葉は論理的にかなっていることなのか?
事実、真実、真理は深くて難しい言葉ですが
普段の日常でも少しだけ分けて考えると気持ちの整理がしやすいですね

真理は人間として持ち続けたい【事実と真実を使い分ける作業が必要】

真理は人間が持ち合わせている美しい心です。
人生を送る間に事実と真実によって本当か?偽物か?を見極めなければならない
事実と真実を見て聞いて確かめて、自分自身でかみ砕き整理していくことが
真理をキープして常に前向きに進むことができるモチベーションでもある
 
真理を心に刻みこむ訓練こそがアンチエイジングになり
穏やかではあるが、信念があり、尊敬できる人間として人生の最後を迎えられる
 

真理をあなたはどのように捉えていますか?

このように質問されて即答できる人は寺の住職ぐらいかもしれません

もしかしたら
寺の住職とは名ばかりで仏教の教えなどハチャメチャな人もいる時代です

私は
今の日本における仏教に関して少しは分かっているつもりだが
昔から続く慣習に従わなければならない?部分のあやふやな行動に疑問もある
信仰は自由ですべての宗教を尊重するし無宗派とか無神論者と言う人も含めて
現代社会を生きる人の少しでもモヤモヤの部分が整理できればと思う

そして話は戻りますが
私の真理の捉え方は「生まれた時に持ち合わせている本当の心」
そんな感じで捉えています

生まれて知恵がつき始めると
見るもの触るもの、聞くもの、全てが新鮮です
だんだんと「なんでだろう?」の疑問が生まれて人は賢くなっていきます

真理はもしかしたら生まれた瞬間だけに持っている心かもしれません
つまり
人生の時間が1分でも過ぎれば
個人個人の違ったフィルターがかけられていきます
人それぞれのフィルター越しでしか物事は見れない状態になります

それは生きている証でもあるし
悪いことでも間違っていることでもありません

ただ
個々のフィルターで見方も見え方も変わり
フィルター越しに見たものが正しいと解釈し始めるのも人間です

争いごとやトラブル、考え方や意見の相違が起きるのは当たり前ですね
それぞれ見ている景色も見方も違うからです

ここでのポイント
【真理は真っ白な心で物事を見る事】

事実と真実と真理は似てるようだけど違うものだと思い整理しましょう

私は1961年生まれの爺ですが
2020年5月に親父が93歳で亡くなりました

通夜から葬儀までの間、遺体は棺にドライアイスで保管されます
これは今の日本では普通に行うことです
その時
お坊さんや多くの人が言うことは
亡くなった人の側で喋ったり話していることは
「全て故人は聞こえている?」と言うのが言い伝えですね

それはそれで故人を目の前にして
「悪口や軽蔑するようなことを言っては駄目」だということでしょう

めんどくさい人間と言われるかもしれませんが
死んだ人が聞こえていることはありえません

ただ多くの人は故人をしのんでお別れの言葉をかけて
感謝の念やありがとうの言葉をかけます

私事の例で申し訳ないですが
父親が亡くなったことは事実です
故人に感謝の言葉などをかけるのも事実です
では
死んだ人間が夜伽の間、聞こえていないのに「全部聞こえている」
その言い伝えを信じて皆が「あ~そうなんだなあ」と納得しているのが真実です
また
全部聞こえているんだから発言も気をつけているのも真実です
そして
そういった言い伝えを子や孫に教えていくのも真実です

事実と真実は同じ時間軸で見ていることです

交通事故の現場に遭遇して目撃者になったとしたら
警察官には見た事実をそのまま話してくださいと言われます

事細かに自分の記憶をたどりできるだけ事実を伝えます
しかし
あやふやな部分を私見を交えて話すことになります
その私見が入った時点で事実から真実に変わります

真実は物事をねじ曲げるという意味ではないのですが
先ほど話した個人のフィルターの違いで変わります

事実もすでにフィルターがかかっている状態で見ているので
人それぞれ違いが出るのは当たり前なのです

交通事故の場合などでみられる景色は
「私は悪くない」とお互いが思うことです

世の中の出来事は事実と真実で判断されますね

最終的に判断するのが裁判官だったりすることもあります

裁判官は人間です。
自分のフィルターでなく多くの事実と真実から判断するのですが
やはり裁判官のフィルターが外れることはないでしょう

ここでのポイント
【事実と真実は個々ですべて違うのが当然である】

真理は事実と真実とは関係ないのか?

実は事実と真実までは多くの人が追及しようとしますが
最も重要なのはその先の真理へたどり着かなければなりません

仏教では真理こそが誠であり正しいと言われているようです

仏教は置いといて
あんまり普通の人達が真理までたどり着いているかと言うと
「たどり着いていません」し「たどり着けない」と思います

人生を重ねれば重なるほどフィルターが厚くなってる可能性があります

真理はフィルターを通さずに見たままの姿です

つまり
もし自分が見たり聞いたりしていることを
フィルターを通さずに受け止めたらどうなるか?
この作業をしている人はあんまりいません
この作業をする必要もないのかもしれません

しかし
物事とフィルターを通さずに見る訓練だとか意識を持つと
時に気持ちが清々しくなることがあります

それが、無の状態と言えるものかもしれません

真理は事実と真実を整理することで見えるかも

今日見たこと、聞いたこと、食べて味わいを感じたことなど
毎日が事実と真実の連続です

そのなかで「意見の食い違いや、美味しい不味い」などが
たまりにたまっていくとそれがストレスになる原因かもしれません

そこでどうするか?
毎日でなくても事実と真実をきちんと整理しておくことです

また私事の例で恐縮ですが
親父が亡くなった事実で
通夜に始まり葬式だとか初七日だとか49日法要だとか納骨だとか…
この先には多くのやらなければならないことも事実です

そこで
例えば49日法要をどのような形式でいつどこでやるのか?
残された遺族で話をしなければなりません

冒頭で話をしましたが
日本人の慣習でなんとなくではあるが仏教にのっとって
その作法通り行うのが不思議な部分でもありますがそれが真実です

そして
事実と真実を話し合いなどで決めて話がまとまれば
それを自分自信の真理に落とし込まなければなりません
その部分が道理的な納得の仕方です

道理を無視したりあやふやにするとそれがまたストレスになります
つまり
真理は事実と真実を納得できるものにして本来の道理にすることです
これで
かなりのストレスは解消できるはずです

また争いやトラブルもなくなるはずです

人生は今100年時代で長く生きなければならない時代

世の中の出来事を本来のあるべき見方にする作業を繰り返すことは
これはアンチエイジングでもあり脳の活性化にもなります

ここでのポイント
【真理は事実と真実をきちんと整理すれば見えてくるもの】

最後にまとめ

ふと先日の親父の死で「事実、真実、真理」が分からなくなった
今回の記事はかなりの自分の私見ではあるが
最終的に道理的な部分が生きていく上でとても大事だと気づかされた

それに気づくには事実と真実を整理することで
心のモヤモヤなようなものが少しは晴れたのかもしれない

そして
これからの日々も真理と向き合うことを意識することが
もしかしたら健康な身体で長生きする方法なのかもしれない